伝説の調教師The Legend

ダービー馬スペシャルウィーク
菊花賞に参戦したオークス馬ダンスパートナー
異端の才能アグネスデジタル

競馬と無縁の家庭に生まれ育った白井寿昭。
何頭ものGI馬を世に送り出した挑戦の過程を振り返る。

1945年1月13日。広島県生まれ。大阪府育ち。

競馬に興味を持ったキッカケ…

白井寿昭は「競馬とは無縁の家庭」で生まれ育った。時代とともに変わりつつあるものの、職業の特殊性ゆえ血縁関係の多い競馬サークル。その傾向は現代も引き継がれている。そんな中、他の多くの“新人”とは異なり、競馬と無縁の家庭で生まれ育った白井は「競馬が好き」という一心で競馬の世界を目指した。

競馬に興味を持ったのは中学時代──。

東京タワーの完成や当時の皇太子殿下であった明仁親王が御成婚された高度経済成長の真っ只中。中央競馬ではハクチカラが米国遠征に挑戦し、国内では牝馬ガーネットが天皇賞(秋)や有馬記念を勝利した1958年から1959年の頃である。

当時、子供が競馬新聞を読むのは“とんでもない”と考えられていた時代。白井少年は大阪府内の銭湯に行くと、コソッと隠れるように競馬新聞を読んでいた。この頃は身体の小ささも手伝って騎手を夢見ていた。しかし、父親の「大学は出ておけ」という言葉もあり、騎手への想いを諦め、その後は大学へ進学する。

大学生から厩務員試験まで

立命館大学に進学した白井は、学生時代に様々なアルバイトを経験している。それはお金を溜めて「アメリカに行きたい」という理由だった。

そして、着々とお金を溜めてアメリカ行きの計画を立てていく。飛行機の運賃は高額な時代。旅の計画は神戸からの船便。船底でカリフォルニアまで30日。そこから安く入手できるグレイハウンドという犬のマークで有名なバス会社の定額バス切符(周遊券)を購入し、アメリカ中を周る計画を立てていた。

当時は、ある程度の英語も出来たため「なんとかなる」と考えていた。しかし、その計画は渡航前に中止となった。父親に渡航計画を知られてしまったのである。この時のことを白井は「怒られたわ…」と振り返る。

アメリカ行きが頓挫した結果、「北海道に行ってみよう」と考える。行き先は北海道の岡本牧場。そこでアルバイトという形で岡本牧場にお世話になった白井は、牧場での経験から『競馬の世界に入りたい』という意思を固める。

競馬の世界への想いを固めた白井──。

その想いは、立命館大学の在学中に「厩務員試験を受けに行く」という行動となる。ただ、大学3年で向かった厩務員試験では「お前まだ在学中やないか」と言われて断られている。しかし、それでも競馬への道を諦め切れなかった白井は、牧場アルバイトを続けながら卒業後に備えた。

大学を卒業すると調教師会の関西本部長であった上田武司調教師へ、「厩務員になりたい」という手紙と履歴書を送り、厩務員試験を受けることになる。当時、競馬の世界では極めて珍しかった大卒──。厩務員の中に大卒はおらず、面接官から「大学を出てまで、なぜここに来た」と問われた白井は「調教師になるため」と答えている。

なお、この時は前年(3年の時)に試験を受けに行ったこともあり、職員に「おー、ホンマに来たんやな」と驚かれている。

厩務員時代

1968年(昭和43年)。晴れて厩務員となった白井は、試験の際に手紙を送った上田武司厩舎の所属となる。初めての担当馬はネヴァービート産駒の牝馬マルブツクイン。同馬はデビューから3戦目に初勝利を挙げると、その後も平地で5勝と活躍した。のちに白井は調教師となってマルブツクインの孫を管理している。なお、当時の上田厩舎には、のちに調教師となる瀬戸口勉騎手、松田博資騎手が所属していた。

また、それまで馬に乗った経験の無かった白井は、この厩務員時代に「乗馬苑」で他の騎手候補生と同じように競走馬に乗るための特訓を積んでいた。

調教助手時代

厩務員として5年を過ごした白井は、1973年(昭和48年)から調教助手となる。所属は引き続き上田武司厩舎。この頃は、“調教助手”という職業が確立していない時代から実技と筆記試験が行われ始めていた時代へ移行しつつあった。前記の通り乗馬苑で日々特訓を積んでいた白井に対して実技試験は免除の措置が取られたが、筆記試験は受けている。

調教助手となった当時の上田厩舎には、のちに調教師となる瀬戸口勉騎手が所属していた。この時、瀬戸口騎手は一流の乗り役。一方の白井は調教助手になりたて。同じように攻め馬に跨っても馬を御すことに長けた一流騎手と自らとの差に思い悩んでいる。ただ、実際に馬に乗ってみないと分からないこと。乗った経験があるからこそ分かること──。この調教助手時代の経験は、のちに調教師としてスタッフに指示を出す際に大きく活きてくる。

なお、この調教助手時代は、いくつかのエピソードもある。

調教助手となって数年後。当時の白井は、上田武司調教師が体調を崩して入院したこともあり、“臨場業務代行”という調教師の代行を行なえる業務を行なっていた。厩舎管理馬の次走レースの決定から馬主との調整。そして、入院中の上田武司調教師への報告と確認。携帯電話の無い時代。臨場業務と病院への往復を繰り返し、忙しい日々を過ごしていた。

そんな中、当時の規約(労働協約)には、『厩舎の管理馬は朝の調教を済ませると、その後に昼運動をさせ、それから馬を手入れして寝かし、カイバを付ける必要』があった。

しかし、白井は上田調教師の承諾を得た上で、特に暑い夏場の小倉などでは昼からの運動を行なわず、調教終了後の時間にクーリングダウンを行ない、また、速い時計で追い切った馬については、昼からは馬の状態を確認する時間に充てた。

そして、そうした方針が功を奏し、管理馬の成績は上昇。白井は上田調教師に何度も「勝ちました」と連絡し、病床の上田調教師は大いに喜んでくれたのである。

ただ、当時は誰も取り入れていなかった手法。何より、規則から反れた調整。そのため、臨場業務を行なっていた白井は、当時の業務委員長である夏村氏に呼び出され、「お前、お前の所の厩舎は昼の運動しとらんやないか。労働協約を見てみい、ここ読んでみい、『昼の運動してから手入れして寝かす』と書いてあるやろ。労働協約を破ってるやないか」と注意されている。

その後、ほとんどの厩舎が取り入れている調整方法。当時は珍しかった手法を先駆けて白井は積極的に取り入れていた。

また、現在ではポピュラーな厩舎服──。しかし、当時「厩舎服」という考えはなく、各厩舎のスタッフは私服で調教に乗っていたため、毎日異なる服を着ていた。そのため“自厩舎の馬がどこを走っているか分からない”という状態。

そこで白井は、ある年の正月に上田武司調教師へ“厩舎カラーの服”を「作ってほしい」と進言する。その結果、上田武司厩舎と縁の深く、大馬主として知られる上田清次郎氏の勝負服である「黄、黄袖、黒元禄」を模した厩舎服を制作するに至り、今では珍しくない「厩舎服」の先駆けとなった。

なお、同カラーの厩舎服は、上田武司厩舎の解散後に松田博資厩舎が引き継いだ。

※厩務員時代(写真左)、初の担当馬マルブツクイン、写真右は馬主・大澤毅氏、鞍上は中島敏文騎手(1969年9月13日札幌競馬場)

調教師として…

厩務員として競馬の世界に飛び込んでから約10年。当初の目標であった調教師試験を受験する。難関といわれる調教師試験。しかし、過去の問題集などを活用して効率よく勉強する術は大学時代の経験が活きた。難関試験を僅か2回で通過する。

なお、白井は1度目の挑戦でも筆記試験を通過している。しかし、運悪く胃潰瘍を患い入院。面接を受けられず不合格となった。

1979年(昭和54年)10月6日。開業した白井寿昭厩舎は中京競馬場にて管理馬が初出走する。ただ、初勝利を挙げたのは約5ヵ月後の80年3月。同期7人の調教師の中で、白井と“もう一人の調教師”が未勝利で残る状況だった。当初は必ずしも順調なスタートを切った訳ではない。

なお、もう一人の調教師とは池江泰寿元調教師。のちにディープインパクトやメジロマックイーンなどを育て上げる名伯楽である。

『血統に対するこだわり』

現役時代、そして引退後も血統に対する強いこだわりを持っている白井。その理由のひとつに、競馬とは無縁の家庭に生まれ育ち、“大卒厩務員からスタートした調教師”というバックボーンがある。当時、調教師となる人間の大半は元乗り役などである。彼らはキャリアを通じて大きな人脈を持っていた。対して白井は、競馬の世界に入り厩務員から調教助手を経て僅か10年ほど。調教師としては無名の存在であり、大手牧場などへアピールできる実績は無く、またコネクションも無かった。

競馬の世界に入る前──。ひとりのファンとして競馬と接した時代から血統に対する強い興味を持っていた白井。調教師となった後も「血統」に対する造詣を深め続けた。同時に、チャンスの少ない国内よりも優れた血統と出会うチャンスを広げるため、その視線を海外へ向けた。

そして、その想いと、海外セールなどに足を運び続けた行動は、のちに初のGIタイトルをもたらすダンスパートナーとの出会いに繋がる“キッカケ”を作ることとなる。

社台ファームの創設者である吉田善哉氏。ノーザンテースト、そしてサンデーサイレンス。旧来の国内血統地図を塗り替えるスーパーサイアーの導入のみならず、現在の日本競馬を語る上で欠かすことの出来ない存在。その吉田善哉氏が、のちにダンスパートナーを生む繁殖牝馬ダンシングキイを41万ドルで落札したセールに白井は居合わせている。

この時、既にダンシングキイに【ある種の魅力】を感じていた白井は、吉田善哉氏が落札した同馬に対して、「(その仔を)ぜひやってみたい」という思いを抱いた。そして、その気持ちが、のちにサンデーサイレンスとの間に生まれてくるダンスパートナーを管理することへ繋がる。

調教師時代、多いときには年8回は海外セールなどに足を運び、血統面の知識と馬体の知識を持って当地のサラブレッドを毎年何百頭も見続けた白井。のちに、生まれたばかりのアグネスデジタルなどを見出した相馬眼はこのように養われていくが、そのスタートラインのひとつに「血統に対するこだわり」を根源に抱いていた。

『調教師デビューから』

1980年3月23日。管理馬スズカセイコー(父ハイセイコー)で調教師1勝目を挙げると、同年8月には松田博資騎手(当時)の騎乗したスズカシンプウ(父シーホーク)で小倉記念を勝利。重賞初勝利を挙げる。

この年に通算10勝を挙げると翌年以降も着実に勝利数を重ね、1984年には通算50勝を達成。この間、1983年にはスリーキャプテン(父ダンシングキャップ)で重賞タマツバキ記念も勝利。また、1982年の調教技術賞(関西)の表彰を受けると、1984年と1985年は優秀調教師賞(関西)の表彰を受けた。

その後も順調に勝利数を積み重ね1985年に日高大洋牧場の生産馬コーリンオー(父ドン)でスワンS。1986年にはイズミスター(父キャタオラ)で金鯱賞を勝利。

そして、1986年6月1日には通算100勝を達成した。

なお、99勝目と100勝目はともにアスコットデュール(父デュール)で勝利。また、アスコットデュールは翌87年に武豊騎手の騎乗でも勝利を挙げている。武豊騎手にとって、この騎乗はデビュー127戦目・通算11勝目であると同時に白井厩舎の管理馬に初めて騎乗したもので、「白井厩舎と武豊騎手のコンビ」は幸先の良いスタートを切った。

のちに競馬界を牽引する武豊騎手は白井厩舎の管理馬スペシャルウィークで自身初めてのダービー制覇を果たしたのである。また、あまり知られていないが、武豊騎手は、自身の通算100勝目を白井厩舎の管理馬マルブツソロン(父マナード)で挙げている。

1989年7月22日に新馬戦のエスケーローズ(父カツラギエース)で通算150勝を達成すると、翌1990年はニチドウサンダー(父ニチドウタロー)で、のちの名マイラー・ダイタクヘリオスなどを下してシンザン記念を勝利。重賞5勝目を挙げる。

1991年11月16日にマルブツサンキスト(父プルラリズム)で通算200勝。1993年8月14日にはスイートマジョラム(父ローソサイエティ)で通算250勝を達成する。

なお、1993年は1月にGIIIの京成杯をオースミポイント(父ベリファ)で勝利。さらに通算250勝を挙げた翌々週の8月29日には河内洋騎手(当時)騎乗のマルブツサンキストで小倉記念を勝利。この小倉記念はマルブツパワフルとの2頭出し。マルブツパワフルも9番人気で5着と好走している。

管理馬の初出走から約15年。1994年末までに通算283勝。着実に勝利数を伸ばし、重賞勝利数もひとつひとつ積み重ねていた。

『GIトレーナーへ』

1995年1月29日。サンデーサイレンスの初年度産駒であるダンスパートナーが新馬戦を勝利。この時の出走レースは小倉の芝1200m。5月26日の遅生まれで体質も弱かったダンスパートナーはデビューが年明けとなったこともあり、白井の判断で小倉デビューを選択された。

同年5月21日。ダンスパートナーでオークス制覇。白井自身もGI初勝利を果たす。

前述の通り、ダンスパートナーの「母ダンシングキイ」はアメリカの繁殖セールで吉田善哉氏が落札。白井はその場所に居合わせている。それはサンデーサイレンスの勝った1989年のBCクラシックを現地で観戦した次の週のことだった。

1995年7月23日。新馬戦のマルブツヘクター(父ヘクタープロテクター)で通算300勝を達成。

同年8月、仏国GIII・ノネット賞にダンスパートナーで出走し、2着と好走。続く9月には同馬にて仏国GI・ヴェルメイユ賞へ出走する。

なお、フランス当地にてダンスパートナーを受け入れていたバルブ厩舎にはヴェルメイユ賞に向けた現地の有力馬が在籍。ノネット賞で2着と好走したダンスパートナーへの警戒感からか、バルブ厩舎は白井厩舎のスタッフに、厩舎への出入りとダンスパートナーへの関与を禁止するようになる。ダンスパートナーはどんな状況なのか──。ヴェルメイユ賞はそれも分からぬままの出走であった(6着)。

※ダンスパートナーの真実は【アカデミック連載】にて公開中
(オリジナル有料コラム)

1995年は牝馬ダンスパートナーで11月5日の菊花賞へ異例の挑戦。単勝1番人気の支持を集めて5着と健闘する。

翌1996年。5月の京阪杯をダンスパートナーで勝利。秋に入って11月9日の障害重賞・京都大賞典・秋をザスクープ(父サクラユタカオー)で勝つと、翌日11月10日のエリザベス女王杯をダンスパートナーで勝利した。

ダンスパートナーは、翌年も宝塚記念3着、エリザベス女王杯2着とGI戦線で好走を続け存在感を示した。白井にとって初のGIをもたらした同馬は、1997年の有馬記念を最後に引退する。

なお、生まれたばかりのダンスパートナーは必ずしも見栄えのする馬ではなかった。むしろ細いくらいの印象であった。しかし、血統面の魅力と【ある種の魅力】を感じ取ったダンスパートナーが超一流の競走馬へ成長していくことで、白井の心には、

『馬を見定める上での確かな下地』

という思いを抱かせるに至っている。

『ダービートレーナーへ』

1997年2月16日。オースミマックス(父サクラユタカオー)で小倉大賞典を勝利。通算349勝目を挙げると、翌週の新馬戦でO.ペリエ騎手の乗ったエンディングテーマ(父ゴールデンフェザント)で通算350勝を達成。

そして、1997年の11月29日。武豊騎手の乗るスペシャルウィークが満を持してデビューする。

──遡ること2年半前──

1995年5月2日。ゴールデンウィークの真っ只中。スペシャルウィークは日高大洋牧場で生まれた。白井はこの時、ダンスパートナーとともに20日後のオークスに向けて邁進中だった。

しかし、それでも白井は牧場に伝えた。

「連休明けには、必ず馬を見に行くから」

半姉オースミキャンディも管理する白井。“ゆかりの血統”に父はサンデーサイレンス──。
生まれたばかりの若駒に強い思いを抱いていた。

1997年の秋。成長したスペシャルウィークは栗東トレセンに入厩する。そして、スペシャルウィークに強い思いを抱いた人物がもう1人。デビュー2週前の調教に跨った武豊騎手。

『先生、この馬はすごいわ。ずっと乗せてください』

白井と武豊。

ここから両者が抱いた大きな期待は、翌春のダービーへ向かっていく。

※スペシャルウィークの真実は【アカデミック連載】にて公開中
(オリジナル有料コラム)

1998年2月8日。スペシャルウィークは、きさらぎ賞を勝利。さらに3月の弥生賞を勝利すると、6月の日本ダービーを勝利し、世代の頂点へ駆け上がった。

厩舎開業19年の白井と騎乗した武豊騎手にとって、初めての日本ダービー制覇。日本の競馬史に新たな1ページを刻んだ。

またこの年は、8月にリザーブユアハート(父ハウスバスター)で函館3歳S(当時)を勝利。10月にはスペシャルウィークで京都新聞杯を勝利。さらに10月25日の東京3R・3歳上500万下に出走したクライングウィナー(父ガイガーカウンター)の勝利によって通算400勝を達成する。

なお、1996年~98年は優秀調教師賞(関西)の表彰を受けている。

1999年1月。四位洋文騎手の騎乗したオースミジェット(父ジェイドロバリー)で重賞の平安Sを勝利。5月にオースミジェットでアンタレスSを勝利すると、ビッグバイキング(父シアトリカル)で京都4歳特別も勝利。

さらにこの年は、スペシャルウィークにて、1月のアメリカJCC、3月の阪神大賞典、5月の天皇賞(春)、10月の天皇賞(秋)、11月のジャパンCを勝利した。

なお、スペシャルウィークによる天皇賞の春秋“制覇”は、タマモクロス、スーパークリークに続いて史上3頭目。同一年の春秋「連覇」はタマモクロスに次いで史上2頭目である。デビューからの通算獲得賞金は10億円を超え、この年を持って競走馬を引退。種牡馬入りした。

1999年末までに白井は、通算431勝、重賞25勝、GIを6勝。また99年はJRA賞の最多賞金獲得調教師賞の表彰を受けた。

さらに、1999年9月はアグネスデジタル(父クラフティプロスペクター)がデビューする。同馬は12月の川崎(地方)で全日本3歳優駿(当時)を勝利した。

『個性派の管理馬たち』

2000年1月23日。前年に続きオースミジェットが平安Sを連覇。続いて9月にアグネスデジタルがユニコーンSを勝利。アグネスデジタルはこの間に6月の地方・名古屋優駿(名古屋)も勝利する。

11月には、それまで主にダートで活躍していたアグネスデジタルでマイルCSを制覇する。古馬混合の芝GIに出走させて勝利を挙げるとともに、3歳馬のマイルCSの勝利は、サッカーボーイ、タイキシャトルに続く3頭目の快挙。なお、それ以降に3歳馬の同レース制覇は無い。(2016年現在)

2001年1月。この年最初の勝利となる4歳上500万下のマチカネヒザクラ(父デインヒル)で通算450勝を達成。

さらに同年10月にはアグネスデジタルで「天皇賞(秋)」を制覇する。なお、天皇賞に出走する前のアグネスデジタルは、9月に地方船橋の日本テレビ盃、10月に地方盛岡の「マイルCS南部杯」を勝利。

そして、天皇賞(秋)を制覇した次走では、異国香港の地で「香港C」を勝利し、さらに続くレースとなった翌年の「フェブラリーS」も勝利する。

これにより、10月のマイルCS南部杯から、「地方のダートGI」、「中央の芝GI」、「海外の芝GI」、「中央のダートGI」という『異なる条件でのGI・4連勝』という日本競馬史における偉業を成し遂げている。

なお、2001年当時の天皇賞はマル外(外国産馬)の出走枠に制限が設けられていた。

秋の天皇賞に出られるマル外は2頭まで。メイショウドトウと、もう一頭の“クロフネ”は早々に出走を表明していた。

ここにアグネスデジタルが出走を表明。

その結果、当時絶大な人気を誇った“クロフネ”は秋の天皇賞へ出走できなくなった。

ルールの元で正式な手続きを踏んでの出走。本来は批判の対象となる理由はなかった。

しかし、クロフネが、“前年無敗の年度代表馬”にして“2年連続の天皇賞春秋連覇の偉業”を狙う現役最強テイエムオペラオーと『好勝負の出来る馬』と思われていたこともあり、アグネスデジタル陣営は大きなバッシングの対象となった。

白井自身は当時のことを、「後ろめたさを感じることはなかったが、レース前日にクロフネが武蔵野Sを大楽勝したこともあり、さらにプレッシャーを感じることになった。(アグネスデジタルは)結果を残さなければ…」という思い抱いたことを振り返っている。

当時の白井は天皇賞に向けて、強力なライバル達を撃破する術を考えていた──。

※アグネスデジタルの真実は【アカデミック連載】にて公開中
(オリジナル有料コラム)

2002年2月。前述の通りアグネスデジタルがフェブラリーSを勝利すると、9月1日の小倉12Rをクラッシードレス(父エリシオ)で勝利。通算500勝を達成。

また2003年6月にはアグネスデジタルで安田記念を勝利。同馬にとって中央・地方・海外を含めて通算6度目のGI制覇となった。

同年9月にメイショウボーラー(父タイキシャトル)が小倉2歳Sを勝利。同馬は翌10月のデイリー杯2歳Sも勝利する。

白井はこれらの実績により2003年は優秀調教師賞(関西)の表彰を受ける。

2004年5月。新潟10Rのわらび賞をナイキデラックス(父アフリート)で勝利。通算550勝を達成。

さらに10月にはアグネスウイング(父エンドスウィープ)がシリウスSを勝利。この勝利によって95年のオークス(ダンスパートナー)以来、10年連続の重賞制覇を達成。

2005年1月。メイショウボーラーでガーネットSを勝利。同馬は続く根岸Sを勝利すると、2月のフェブラリーSも制覇した。

2006年5月21日。東京6Rの3歳500万下を武豊騎手騎乗のアグネストラベル(アグネスタキオン)で勝利。通算600勝を達成。

11月にはフサイチパンドラ(父サンデーサイレンス)でエリザベス女王杯を勝利。さらに同馬は2007年に札幌記念も勝利している。

『16年連続の重賞制覇と調教師引退』

2008年8月24日。ケイアイプラウド(父プラウドシチズン)で札幌7Rを勝利。通算650勝を達成。翌9月にフェラーリーピサ(父タッチゴールド)でエルムSを勝利。2009年2月。フェラーリピサが根岸Sを勝利すると、2010年1月にはライブコンサート(父シングスピール)で京都金杯を勝利した。

ライブコンサートによる京都金杯の勝利は、調教師として16年連続の重賞制覇。

そして、2011年7月にドリームセーリング(父クロフネ)が函館の松前特別を勝利。通算700勝の大台に到達する。

なお、最後の重賞勝利となった京都金杯以降も、富士S、ダービー卿CTの2着(いずれもライブコンサート)のほか、自身が管理したスペシャルウィークの産駒となるクインズハリジャンで京王杯2歳Sの2着。さらにレディオブオペラ(父シングスピール)で14年シルクロードSの2着と、管理馬から重賞競走に有力馬を送り続けた。

2015年2月末──。
定年にて調教師を引退した。

中央通算775勝。
海外・地方を合わせて通算795勝。

『調教師の引退後』

調教師引退後の現在は、

『一人でも多くのファンが競馬に対する知識を深め、これまで以上の愛情で競馬に接してほしい』

という考えから、NHK競馬中継の解説ほか、競馬のカリスマなど各種媒体で活動を続けている。

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