[第1章]血を追い求めて(ダンスパートナー編) 過去の管理馬

その小柄な馬体に、血統をなにより大切にする私の信念を詰め込み、白井厩舎に初のGIタイトルをプレゼントしてくれたダンスパートナー。
彼女は私が管理した多くの馬の中でも、特に思い出の深い1頭だ。

多くのことを彼女と経験し、多くのことを彼女から学ばせてもらった。
鋭い末脚を武器に、ファンを魅了したダンスパートナーだが、彼女の秘められた物語は、華やかだった競走生活とは別のところにもある。

今回は、そんな彼女の物語を話してみたいと思う。

・競走馬との出会い

競走馬との出会い──。
競馬ファンの多くは、2歳のデビュー戦がそれにあたるだろうし、一口オーナーと呼ばれる愛馬会などに出資されている方々は、もう少し前のタイミングかもしれない。

調教師といってもタイプは様々。
頼まれた馬だけを預かる調教師もいるが、牧場に足を運び、自分の目を信じて馬を探す私は違う。

私と競走馬との出会いは、彼らがこの世に生まれ落ちた瞬間、もしくは、その数週間後。
ゆえに競走馬がデビューする時には、彼らとの間に2年もの下地が、すでにあるわけだ。

新馬戦のパドックは、将来への期待だけでなく、無事にデビューの日を迎えたことへの感慨──。
そんな思いを私は常に感じていた。

・出発点はアメリカ

ダンスパートナーのデビュー戦は特に感慨深いものだった。

彼女の能力が突出していたから?
もちろん、それも理由のひとつではある。
しかし、最大の理由は、デビューに至るまでの年月。

ダンスパートナーが誕生したのは1992年だが、私と彼女との出会い──いや、これは縁と表現すべきだろうか。
1989年秋、ケンタッキーで行われた繁殖セール。
この場所こそが、私と彼女の出発点だ。

彼女が生まれる2年半も前から、私は彼女の誕生を待ちわびていた。

社台ファームの吉田善哉さんが「この馬だけは絶対に落とせ」と号令をかけていた馬。
その馬こそが、ダンスパートナーの母となるダンシングキイという馬だった。

彼女の父は英国三冠馬のニジンスキー。
吉田善哉さんが、競走生活のないダンシングキイの購入を決めた理由──。
それはこの血統背景にある、と私は考えていたのだが、私がこの馬に注目していた理由も、実はそれだった。

これまでに多くのノーザンダンサー系種牡馬を実際に見てきた。
ダンジグ、リファール、ヌレイエフ。
実績を残す大種牡馬ばかりだ。
だが、私のナンバー1は常にニジンスキー。
超がつくほどの大きな馬体、その馬体にふさわしいダイナミックな走り。
これに私は魅了されていた。

母父マルゼンスキーのような馬が、私の厩舎には数多く在籍していたが、これは私がニジンスキーの血を私が求めていたからこそ。
ニジンスキーの影響が特に色濃く出た馬が、マルゼンスキーだった。

社台ファームがダンシングキイを購入。
彼女の子が日本で走る可能性を感じ、アメリカの地で私の心は躍る。
日本へと渡った彼女に、交配されたのはなんとサンデーサイレンス。
この話を聞いた時に、私は不思議な縁を感じた。

日本の競馬地図を塗り替えた大種牡馬のレースを、私は実際に現地で2回ほど見ている。
1回目は三冠最終戦のベルモントS。
イージーゴアに8馬身差で負けてしまったレースだ。

だが、すでに私はこの時点で「種牡馬として成功するのはサンデーサイレンス。血統は地味だし、飛節も少し折れているが、それに目をつぶっていいほどの体のしなやかさを、この馬は持っている。ゆえにコーナーでのスピードが落ちない。この馬の豊富なスピードは、種牡馬として成功するために必要なもの」と判断していた。

それこそ、ダンシングキイがセールに上場された前の週の話。
ブリダーズカップクラシックを制した彼の姿を、実際にこの目で見ることができた。
考えていたとおりの馬だ。
そう感じた。

あのサンデーサイレンスが日本にやって来る──。
このニュースを聞いた時の私の反応は、おそらく他の競馬関係者と違うものだろう。

「サンデーを購入したのは社台。ならば、ダンシングキイが交配されるかもしれない」
1989年秋。
あの日、あの瞬間にアメリカにいたからこそ、私はダンスパートナーという馬に興味を持ったのだ。

・第2章はコチラ

【過去の連載馬】
[第1章]「デジタルとの出会い」(アグネスデジタル編)
[第1章]「ボーラーとの出会い」(メイショウボーラー編)

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